芭蕉が愛した山中温泉|鶴仙渓の自然と川床を味わう

自然の営み

 橋桁からカマキリが川に落ちた。獲物を待ち構えていたとみえ、とたんに川魚が我先にとカマキリに群がってきた。カマキリはもがいて逃れようとするが、やがて川底へと飲み込まれてしまった。
 ——ここでは、自然界の当たり前の営みが繰り返されている。

 青春18きっぷを利用して、石川県加賀市・山中温泉を訪れた。温泉郷のすぐそばには情緒ある街並みと心を洗う自然がある。温泉街に沿うように流れる大聖寺川の渓谷は『鶴仙渓』と呼ばれ、美しい渓谷美を楽しめる。そこには、かの松尾芭蕉も奥の細道紀行で8泊9日間滞在した、それは心の休まる静かな空間が広がっているのだ。
 約1.3キロにわたる遊歩道が整備され、片道の所用時間は40分。朝食を済まし、バスの送迎時間までの散歩に最適だった。

 この日も連日のことながら、もう夏に終わりはこないんじゃないか、と思えるほどの暑い1日だった。それが鶴仙渓に入った途端に、ぐっと気温が下がったように感じた。木陰に囲まれた遊歩道にはそよ風が吹き、せせらぎと野鳥の鳴き声が響きわたっていた。
 石畳の遊歩道には苔が生え、道端には青々としたシダ類がおい茂っている。河原ではカワガラスが水浴びをしながら、上流へ向かって歩いていた。
 実際に舗装路の上より気温が低かったのかもしれないが、自然の情景が涼を感じさせたに違いなかった。

 鶴仙渓にはいくつか橋がかけられている。石造りの黒谷橋。赤くモダンなあやとり橋。総ひのき造りのこおろぎ橋。それぞれに趣があり、橋を巡ってみるのも楽しい。
 その橋の上からカマキリが落ちて、川魚の糧となった。幼少期から自然に親しんできたが、このような瞬間を目撃したのは初めてのことだ。だが自然界では日常のこと。
 戦後最大の国難に直面している今の日本の状況など所詮、人間の都合である。渓にはただ自然の理が存在するのみだ。

 こういった、何のことはない光景に出くわしたときにどう観察するかで、その人の感性が問われる気がした。偉人と呼ばれる人たちは、このようなごく当たり前の営みに遭遇した瞬間に、悟ったり、ひらめいたりしたのだろうな。
 リンゴが地面に落ちて万有引力の法則を発見する人もいれば、「何をそんな当たり前のこと」と通り過ぎる人もいる。カエルが水に飛び込んだ音を名句に表現した芭蕉だって、卓抜した感性と着想の持ち主であることは疑いようがない。

「古池や 蛙飛び込む 水の音(芭蕉)」

 嗚呼、自分にもそんな才覚があったらなぁ。私のそんな願いはよそに、渓は上流から下流へと向かって流れていた。

鶴仙渓の川床と加賀棒茶

 鶴仙渓を訪れたなら、ぜひ楽しみたいのが川床である。鶴仙渓のちょうど真ん中、あやとり橋の近くにある。席数は決して多くはない。テーブル席とお座敷がいくつかあり、赤い和傘がしつらえられた、こじんまりとした川床だ。
 お座敷席は川にすぐ手が届くぐらい低い場所にあり、そこからの視界は、川に漬かっているかのような錯覚を起こさせた。

 さっそくお茶とスイーツを注文した。『川床セット』600円なり。スイーツは冷製抹茶しること、川床ロールから選べる。お茶はキンと冷えた加賀棒茶だ。加賀棒茶は、お茶の茎の部分を浅く均一に炒り上げたほうじ茶で、北陸の加賀地方を中心に親しまれている。
 程よく歩いた体に、冷たいお茶はすっと染み込んだ。ほんのりと香ばしく、そして甘いすっきりとした味わいだ。芭蕉もこのお茶を飲みながら句を読んだのだろうか。

「山中や 菊は手折らぬ 湯の匂い(芭蕉)」

 川床の先には、あゆの友釣りに勤しむ釣り人の姿が見えた。

 ——夏だなぁ。

 そこにあるのは自然の木陰と川のせせらぎ。川沿いを吹く風と、よく冷えた加賀棒茶。
 他には何もいらなかった。

created by Rinker
¥1,320 (2021/01/17 16:57:02時点 Amazon調べ-詳細)
created by Rinker
JTBパブリッシング
¥1,078 (2021/01/17 16:57:22時点 Amazon調べ-詳細)