六甲山 ドントリッジ

久しぶりに六甲山・ドントリッジへ登山に出かけてきました

 関西に発令されていた緊急事態宣言がようやく解除され、待ちに待った登山に出かけてきた。僕が所属する山岳会も活動を再開し、この度、山行のリーダーを努めさせていただいた。といっても会は経験豊富なベテランぞろいであり、僕はただ先頭を歩いただけである。

 今回は六甲山の中でのマイナーコース「ドントリッジ」を歩いてきた山日記だ。ドントリッジの詳細については「六甲山の登山コース【北ドントリッジ・南ドントリッジ】の概要とハイキングレポート」を参考に。以下からが本編です。

大阪青雲会の旗の左手、青いパーカーの男性が管理人だ。

 落ち葉が踏み分けられたうっすらと残る登山道に目を凝らしながら、視線を上げたその先には、晴れわたる青空が広がっていた。
 今から挑む「北ドントリッジ 」を前に、ここから先は一般登山道ではない——そう自分に言い聞かせると、にわかに五感が冴えわたり、一気に集中力が増してゆく。
 周囲の地形と地形図を慎重に照らし合わせながら、サムコンパスを操る手にも自然と力が入る。片側が切れ落ちた尾根を進み、わずかなスタンスに足指をかけると久しぶりの岩の感触が足裏を通じて全身を駆け巡る。次のホールドをつかむために伸ばした左手のひらには、しっとりと汗が滲んでいた。

 そうして登った名も無きピークからは、東に摩耶山の頂を望み、眼前には迫力ある黒岩尾根がその山容をどっしりとたたえている。西の遠方には鈴蘭台の街並みが広がり、その先の、はるか遠くに連なる山々までをも見渡せた。

 六甲山を開拓した先人達も、同じ風景を眺めていたのだろうか。もっともその景色は、張り巡らされた送電線が視界に入る、近代化された眺望とは違ったことだろう。
 それでも、明治の中頃から大正・昭和にかけての開拓の歴史が色濃く残る六甲で、その軌跡が現代の登山愛好家に受け継がれていることを思うと、僕は先人たちに想いを巡らせずにはいられないのである。今こうして歩いているドントリッジも、近代登山の黎明期に、六甲登山を文化として、またスポーツとして広めた登山家、「H.E.ドーント」の足跡なのだ。

「至らない点もあるかと思いますが、今日はよろしくお願いいたします!」

 コロナ禍で長らく休止していた例会の久しぶりの再開であり、また好天に恵まれたこともあって、18名が参加し、こうして第4113回・ドントリッジ(六甲)例会が始まった。今日は新神戸駅から市ケ原、高雄山、ドントリッジを経て神戸市立森林植物園へ。そこから山田道を経由し、谷上駅へ下山する約9kmの道のりだ。出発して間もなく、早春の爽やかな風に包まれながら布引の滝、布引貯水地へと歩いていくと、すぐに愛すべき六甲の隣人たちが僕たちを出迎えてくれた。

 貯水池の奥ではオシドリたちが井戸端会議に精を出している。僕のすぐ前を飛んでは隠れるシジュウカラやヤマガラたちは、この先の道案内をしてくれるかのようだ。「ピーヨ、ピーヨ!」とヒヨドリはいつ訪れてもせわしなく自己を主張し、「ケキョケキョ」と鳴くウグイスは、もうじき、日本一有名なさえずりで僕たちを楽しませてくれるだろう。

 やがて市ケ原に到着し、しばし休憩をとる。ここまではいわば観光地の延長で、この先からが本番だ。休憩を終え、取り付いた高雄山への急斜面が久しぶりの登山でなまった体に容赦なく鞭を打つ。「やっぱり山は毎週歩かないと、だめですねぇ」と嘆息し、一歩足を踏み出すたびに息がはずみ、小休止をはさみながらようやく高雄山頂に到着した。
 何もない静かなピークからは再度山と鍋蓋山をすぐ近くに望める。息を整え、ひととおりの眺めを楽しんだあと、記念撮影を済ませて本日のメインディッシュ「ドントリッジ」へと向かった。

先頭を歩く、リーダー川口(管理人)。

 1868年(明治元年)の神戸開港により、開国まもない日本にチャンスを求めて多くの外国人が来神した。彼らは今でいう「ベンチャー起業家」たちであり、英国人貿易商「A.H.グルーム」もそのひとりだ。あるとき、グルームと外国人たちが六甲山の別荘でこんな話をしたという。

「長らくゴルフをやっていないな」
「そうだね、六甲山にゴルフ場があったらなぁ……贅沢は言わない……だからせめて4ホールあれば……」
 この会話を傍らで聞いていたグルームがこう提案した。
「それなら、私の借りている土地を開発してみてはどうだろうか」

 こうしてグルームが開発した土地に、日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」が設立された。ときに1901年、明治34年のことである。
 神戸ゴルフ倶楽部はもちろん日本人の入会も許可したが、当時は”知識人”といわれる人でさえゴルフのゴの字も知らなかったというから、実質、会員は外国人ばかりだった。H.E.ドーントは、そんな神戸ゴルフ倶楽部の会員だったのだ。

 他の紳士・淑女たちが山上のゴルフ場まで籠を利用する中、ドーントはトレーニングのために歩いて六甲山へ登った。彼は1905年(明治38年)頃から本格的に六甲登山を開始し、ハイシーズンには3日に1度のペースで登ったという。さらにゴルフ場が冬季閉鎖で活動できない時期も雪の六甲へ積極的に登山し、また登山会「The Mountain Goats of Kobe(神戸カモシカ倶楽部)」を設立したり、登山誌「INAKA(イナカ)」を刊行したりして、六甲山の魅力を日本のみならず世界に向けて発信した。これらの功績がたたえられたドーントは、由緒ある山岳会「英国山岳会」への入会が認められ、こうして、神戸から芦屋の界隈に「六甲山登山」という新しい文化が根付いていったのである。

 ドントリッジは今でこそ踏み跡は薄く、あまり人が訪れないマイナールートではあるが、当時は今日の僕たちのように大勢のパーティーを引き連れて、わいわいとにぎやかに歩いたことだろう。それはまだ未開の地が残されていた六甲で、幼少期の冒険を楽しむかのように——。

「子供のころの山遊びを思い出した!」
 僕の後ろから、楽しそうな声が聞こえてくる。
「六甲を長く歩いているが、こんなコースは初めてだ」
「いったい、どうやってコースを調べたん?」

 参加者からのうれしい声をいただきながら、僕たちもひとときのあいだ童心に返り、小さな冒険を経て森林植物園に到着した。ミツマタの花を観察したり、弓削牧場のアイスクリームやホットミルクをいただいたりするうちに、心温まる日曜日の午後は、穏やかに流れていくのだった。

 昨今、コロナ禍により「ZOOM会議」や「オンライン〇〇」などに注目が集まっている。遠隔地にいる人とでも、まるで目の前で会話するようにネットワークを通じてやりとりができる。なるほど、ご時世にぴったりなシステムであろう。
 しかし、登山会のように同じ趣味を持つ人たちが集い、同じ風を感じ、臭いをかぎ、汗をぬぐいながら談笑し、ときには予期せぬトラブルに見舞われ、お互いを励まし合いながらゴールに向かって歩く体験は、到底オンラインで代替できるものではない。テクノロジーの進歩により人々の生活は変わったが、人間の本質までは変えられないのである。
 こうして一緒に山を歩けることがいかに貴重か——そのことを、わずか数ヶ月の自粛ではあったが、その我慢によりひとしお強く感じた1日であった。

「やっぱり山はいいなぁ」

 世界を震撼させるコロナ禍に振り回されるのは人間だけで、そこにある自然は、変わらず僕たちを迎えてくれるのである。

 まだ経験の浅い僕を歓迎し、やさしく声をかけてくださる皆様に感謝の気持ちを例会報告にこめて。2021年3月吉日 川口貴史(了)

  • <参考文献>
  • 『神戸 スポーツはじめ物語』 高木 應光 (著)
  • 六甲山における外国人別荘地の成立と展開  上垣智弘 , 安島博幸 都市計画論文集 1990年25巻 p.313-318
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